自分もまた、自(然)の分(身)ー宇宙のひとかけら
夢の中に登場する自分
「私」や「俺」は、最も意識的な自我の表れ
です。
対して
他の人達ー例えば警察官や犯人も自分なのですが、
それが見慣れない人であったり、自分とは隔たりがあると感じる人ほど、
受け入れがたい、と感じる、深層的且つ無意識的な感情
といえます。
私達は、目覚めている時には意識があるので、自分自身が人から好意的に見られるよう、
コントロールしていられます。
いい面もあり、嫌な面もあるけれど、
とりあえずバランスを保っているわけです。
でも、そうした統率力が弱まる夢の中では、
私の
いろいろな可能性が「私」の姿になって登場し、
隠された真実、
思いがけない可能性、
受け入れがたい事実
を突きつけられることがあります。
それは自分のこととして知る
必要があるということ。
ときに、
自分が、人にとっている態度
を見せてくれることもあります。それにより、
対人関係の距離の取り方を理解したり、
他人を通して自己の理解を深めることもあります。
前を歩いていた人が振り返ったら、自分だった、
歩いていてふと見たら、左にも右にも自分がいた、
などの夢を見ることもあります。
「イヤな感じ」がする自分は、受け入れがたい自分
であるでしょう。
「積極的に行動し、人の輪の中心にいる自分」の夢は、
自分自身について自信があり、肯定的なイメージをもっている
のでしょう。
これまでイヤな奴と感じていた自分を好ましく感じた
なら、既存の価値観を改め始めた可能性があります。
自分を意識化して、
自分にとって習慣となっている役割を、少し離れて
見て、考える必要があるということ。
左右に分身がいる夢は、
「分かれ道」の選択を迫られている可能性があります。
分身が示した道に、何か大事な意味を感じるのは、
これから立ち向かわねばならない世界があるということ。
その夢に対し、抵抗を感じるのは、それがよくない道であるというよりも、
それはイヤなことだけど、成長のために通らねばならない道
なのかもしれません。
白か黒、右か左と、はっきりと決定して生きる習慣の薄い
日本人には、
矛盾した「私」
が登場することも多いと言われています。日本人は
なんでもかんでも平然と受け入れているというわけではなく、
心の内で様々な葛藤はあるけれど、どこかで自己と繋がって、共存しえている
のでしょう。
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