食べられることを肯定できる時も・・ある
私達は、
「食べてしまいたいほどかわいい」などと思ったり、言われたり(*’▽’)することがあります。
現実には食べたりしないわけですが、夢の中で「食べられる」のだとしたら、
そうした(自分の)衝動に呑み込まれそうになっている
ことを告げています。
例えば「顏」を食べられてしまうのは、
あなたの「主体性」が、
他人の一時的な感情や、内的な衝動によって危険にさらされている
ということです。
食べられる夢を見ても、
「今、自分食べられたな」と思ってみていた
だけで、悲惨な光景が描かれないこともあります。
例えば、
「納得して食べられる」
=雪山童子のように「他者に捧げる」ような行為
である場合、自分の中の、ある側面を育てようとしている
ことを意味します。
「即身成仏を願う」というと大袈裟ですが、
ある徹底した思いの中にある喜びであったり、
自分がどこまでいけるか
確認したい気持ちの表れであったりもするのです。
「大勢の人が、鬼に追いかれていて、自分も『青鬼に手を食べられた』」
という夢を見た子供がいます。
ただ、それは一瞬のことで、「痛くもなかったし、怖くもなくて、手も無事で
そのあと一緒に遊んだ」
のだそうです。
鬼は、超人的な力(エネルギー)を意味することがあります。
「鬼」で記述したように、
怒りを創造性発揮のために活かすように、という意味かもしれないし、
両方の意味があるのかもしれません。
また、
青鬼は、赤鬼の「問題を解決する」存在として欠かせない存在です。
自分の身体の一部分を(一瞬でも)取り入れさせることによって、
青鬼は生き延びる力を得るのであり、
「食べられる」瞬間こそ抵抗が働くものの、手は超人的な力を得、
危害を加えられるどころか、
(言葉を)理解しあい、味方にし、
対等に遊ぶことができる
わけです。
手は意思表示のために使う部位なので、夢主の手にはそれだけの
ー鬼に食べられるだけの価値があるということ、
問題解決ために、それが必要であるということ、
それを使うことで、パワーアップできる、と伝えていたのかもしれません。
コメント