周囲とのつながりが一度に失われる/人のいなくなった場所に、自分だけが残される
夢の中で、
大勢の人が死んだり、
たくさんの死体を目にしたりすることがあります。
あまりにも衝撃的な光景なので、
「何か悪いことの前触れではないか」
と心配になるかもしれません。
けれど、夢の中の死は、現実の死をそのまま予告するものとは限りません。
一人ではなく、大勢の人が死んでいるときに注目したいのは、
そこにいたはずの人たちが、一度にいなくなる
ということです。
世界は残っている。でも、人がいない
「世界が終わる・地球が滅亡する夢」と、
「大勢の人が死ぬ夢」は、一見とてもよく似ています。
けれど、少し違います。
地球が滅亡する夢では、
自分が立っている場所も、
帰る場所も、
自分自身さえも含めて、世界そのものが失われようとしています。
一方、大勢の人が死ぬ夢では、
建物も、
道も、
街も残っていることがあります。
そして、
自分も、そこに生きている。
なくなったのは「世界」ではなく、
その世界を一緒に生きていた人たちなのです。
そのためこの夢は、
周囲との関係が大きく変わること、
これまで頼っていた人から離れること、
自分の居場所を構成していた人々とのつながりが失われることなどを表す場合があります。
大勢の人が死ぬ――周囲が一変する
学校を卒業すれば、それまで毎日会っていた人たちと会わなくなります。
転職すれば、一緒に働いていた人たちが日常から消えます。
引っ越しや家族構成の変化によっても、
自分を取り巻く顔ぶれは変わります。
一人との別れではなく、
「これまで自分の周囲にいた人たち」が一度に遠ざかる
ような変化です。
現実には誰も死んでいなくても、
夢は「以前の関係が終わる」ことを、大勢の死という極端な形で表現することがあります。
たくさんの死体を見る――起きてしまったことを確認している
「大勢の人が死ぬところを見る」のと、
「すでに死んでいる人たちを見る」のでは、
夢の視点が少し違います。
死ぬところを目撃しているなら、
変化が起きている最中にいるのかもしれません。
一方、たくさんの死体を見る夢では、
すでに何かが終わったあと、
失われたものを確認している
ような意味を持つことがあります。
「こんなに変わってしまった」
「以前の人たちはもういない」
「自分だけがここにいる」
という感覚です。
夢の中で死体を見たとき、
怖かったのか、
悲しかったのか、
知っている人を探したのか、
それとも冷静に眺めていたのか。
そのときの行動や感情にも注目してみましょう。
自分だけが生き残る
周囲の人々が死んでいるのに、自分だけが生きている夢では、
「残された自分は、これからどうするのか」
という問題が浮かび上がります。
孤独や取り残された感覚を表すこともあります。
けれど、自分で安全な場所を探したり、
誰かに助けを求めたり、
そこから移動しようとしているなら、
夢は、
周囲の状況が変わっても、自分で考えて行動しようとしている心
も描いているのでしょう。
ここが「世界そのものが終わる夢」と大きく違うところです。
まだ、
できることがあります。
大勢の死から逃げる夢
大勢の人が死ぬ事件や災害から逃げているなら、
周囲で起きている大きな変化や混乱に巻き込まれないよう、
自分を守ろうとしている可能性があります。
逃げる場所を探す。
身を隠す。
安全を確認する。
助けを求める。
誰かを助けに戻る。
そうした一つ一つの行動には、
「この状況で、自分に何ができるだろう」
と考える心が表れています。
恐ろしい夢であっても、
夢の中で自分がどのように行動したかを見ることで、
恐怖だけではない意味が見えてくることがあります。
知っている人が死体の中にいる・いない
死んでいる人が家族や友人など知っている人なら、
その人との関係や、その人物が自分にとって何を意味するのかも考えてみましょう。
一方、
知らない人が大勢死んでいる場合には、
特定の人物との関係よりも、
「集団」「周囲の人々」「自分が属している環境」
といった広い範囲を表している可能性があります。
また、大勢の死体の中から特定の人を探しているなら、
大きく変わってしまった状況の中でも、失いたくないつながり
があるのかもしれません。
子どもが大勢の人が死ぬ夢を見るとき
子どもの場合には、
ゲーム、動画、映画、ニュースなどで見た映像が、夢の材料になることもあります。
銃撃、
逃走、
隠れる、
大勢が倒れている、
といった映像そのものに、必ず深い象徴的意味があるとは限りません。
ただし夢は、そうした身近な映像を借りて、
自分自身が感じていることを物語にすることがあります。
たとえば、
親から離れて過ごす、
初めての場所へ行く、
自分のことを自分でする、
困ったとき自分から助けを求める。
子どもが自立へ向かうとき、
それは「できることが増える」という喜びであると同時に、
「自分でしなければならないことが増える」
経験でもあります。
そんな心の変化が、
「もし頼れる人がいなくなったら、自分はどうする?」
という極端な物語になって現れることもあるでしょう。
夢の実例――戻ってみると、大勢の人が死んでいた
母親とドーナツ店へ行くと、店員の態度がひどい。ドーナツを買おうとすると、
うぜえな、といい「次にもう一個買ったら撃つぞ」とまでいう。
母は違う店員さんから買おうとすると、さっきの奴に撃たれて血だらけになってしまった。
その場で警察に電話すると自分も撃たれてしまう、いったん遠くまで逃げ、途中で見つけた場所に身を隠して警察へ連絡した。
戻る途中、扉のようなものが開くと、そこには大勢の死んだ人たちがいました。母親の姿もなく、探している途中で目が覚めました。
この夢を見る少し前、子どもは親元を離れてキャンプへ参加していました。
そこで
「自分のことは自分でする」
という経験をしていた、
そう考えると、この夢の大勢の死は、
単に恐ろしい出来事というだけではなく、
「いつも助けてくれる人がいないとき、自分はどうするのか」
という心のシミュレーションの一部だったのかもしれません。
実際、夢の中の子どもは、
逃げ、
安全な場所を探し、
警察に連絡し、
そして母親を探しに戻っています。
自分一人で何でもできるわけではありません。
だからこそ、
自分でできることと、大人の助けを借りることを夢の中で使い分けています。
そして最後には母親を探しています。
自分で行動する力が育ってきても、
大切な人とのつながりまで必要なくなるわけではありません。
「一人でも行動できる」
そして、
「それでもママにはいてほしい」。
その両方の気持ちが、この夢には描かれていたのではないでしょうか。
大勢の死の中で、自分は何をしていた?
この夢を読み解くとき、
「大勢の人が死んでいた」
という恐ろしい場面だけで終わらせず、
そのあと自分が何をしていたのかを思い出してみましょう。
誰かを探していた。
逃げていた。
助けようとしていた。
警察や救急車を呼んでいた。
呆然と立ち尽くしていた。
その行動には、
人や環境との関係が大きく変わったとき、自分が何を失いたくないのか、そしてどう対処しようとしているのか
が表れていることがあります。
世界は、まだ残っています。
そして、自分もそこにいます。
だからこの夢には、
失われたものと同時に、その先を生きる自分
も描かれているのでしょう。



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