夢の中では、現実には起こり得ないようなことが、次々と起こります。
見知らぬ場所をさまよったり、恐ろしいものに追いかけられたり、突然、大切なものを失ったり。
空を飛ぶこともあれば、行ったことのない場所へ、なぜか迷わず向かっていることもあります。
夢を見ている最中の私たちは、その出来事を夢だとは思っていません。
目の前で起きていることに必死に対応し、逃げ道を探したり、誰かを助けたり、危険を避けようとしたりしています。
目を覚ましてから振り返ると、
「どうして、あんな行動をしたのだろう」
と思うことがあります。
反対に、
「夢の中でも、私はやはり私なのだな」
と感じることもあります。
夢の舞台や登場人物は、そのたびに違います。
けれど、夢の中で自分が取る行動には、どこか似たところがあります。
危険な場面になると、まず誰かを守ろうとする。
間違いに気づくと、急いで引き返そうとする。
自分のことよりも、周囲の人の都合を考える。
困ったことが起きても、誰かに頼るより、自分で何とかしようとする。
夢の内容は奇想天外であっても、その中で動いている自分には、普段の生き方や考え方が表れていて、
夢は、私たちの中にある生命の傾向性を、少し大げさな物語にして見せてくれているのでしょう。
夢の中で繰り返される、生命の動き
ここでいう「生命の傾向性」とは、性格という言葉だけでは表しきれないものです。
何かが起きたとき、どのように感じ、どちらへ心が動き、どのような行動を選びやすいのか。
その人の生命が、無意識のうちに向かいやすい方向のようなものです。
たとえば、同じように追いかけられる夢を見ても、隠れる人もいれば、立ち向かう人もいます。
誰かと一緒に逃げる人もいれば、一人で相手を引きつけ、ほかの人を逃がそうとする人もいるでしょう。
同じ出来事であっても、夢の中でどのように動くかは、人によって異なります。
そこには、その人がこれまでの人生で身につけてきた考え方や、長い間繰り返してきた心の動きが表れているのかもしれません。
ですが、生命の傾向性は、変えることのできない運命ではありません。
自分の傾向に気づくことによって、
「また一人で何とかしようとしている」
「私は、危険よりも先に人の心配をしている」
「本当は嫌なのに、夢の中でも断れずにいる」
と、自分を少し離れたところから眺めることができます。
そして気づくことができれば、現実の人生では、これまでとは違う選択をすることもできます。
人生もまた、予想外の物語
人生にも、夢と同じように、思いもよらないことが起こります。
その出来事の中にいるときは、意味を考える余裕などありません。
どうすれば抜け出せるのか。
何を選べばよいのか。
誰を信じればよいのか。
私たちは、その時に持っている知恵を総動員し、あの手この手を使いながら、目の前の出来事を乗り越えようとします。
夢の中で恐ろしいものから逃げているときと、どこか似ていて、
ずっとあとになって人生を振り返ると、当時はただ苦しかった出来事も、自分の物語の一部になっています。
「あのとき、私はあんなふうに考えた」
「よく、あの場所から抜け出したものだ」
「なぜか、あの人に助けられた」
そんなふうに振り返ることができるのです。
夢から覚めた朝、夢の中での冒険を思い返し、
「怖かったけれど、なんだか面白かったな」
と思うことがあります。
現実の自分では、決して体験できない世界を生きてきたからです。
人生もまた、最後にはそのように振り返ることができるのかもしれません。
夢ならば、目を覚ませば終わります。
けれど現実の痛みは、目を覚ましても消えてくれません。
それでも、その悲しみも、迷いも、必死になって抜け出そうとした日々も含めて、自分にしか生きることのできなかった人生、貴重な体験です。
私は
この生を終えるとき、
「ああ、面白かった」
と言える人生でありたいと思います。
不思議な夢から目を覚ました朝、長い冒険を思い返すように。
いろいろなことがあった、
怖いことも、悲しいこともあった。
それでも、自分なりに考え、迷い、工夫しながら、最後までこの物語を生きた。
そう思うことができたなら、それはきっと、よい人生だったということなのだと思います。
夢を読み解くことは、これから何が起こるのかを知ることだけではないのかもしれません。
夢の中で繰り返される自分の行動を見つめ、自分の生命がどちらへ向かいやすいのかを知ること。
そして、その傾向に流されるだけでなく、現実の人生では、自分の意思で新しい選択をしていくこと。
私たちは、そうして自分の中にある欲望や生命の力を、
愛を通して健全に表現する術を、少しずつ身につけていくのかもしれません。
夢は、その練習の途中にある自分を、ときに奇妙で、ときに激しい物語として見せてくれているのではないでしょうか。



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