最悪のシナリオを心配する代わりに、戦術を変えてみよう
「私は空港に降り立ち、目的地がどこかわからないまま歩き出した。
芝生のような場所を歩いていると、
虎のような凶暴な動物が、人々を襲うのを目撃する。私は急いで逃げたり隠れたりしながら
その生き物から逃れ続けた。
しかし、もう逃れらえない。終わった、と思ったそのとき、
私の目の前に現れたそいつは、
『おまえをわざと生かしておいた』のだといった。そして、こう続けたそうです。
『どうしてか、わかるか?もっとうまく食うためだ』と。
(このシーンの前にも後にも夢は続いているのですが、割愛します。)
このような恐怖の伴う夢に登場する動物は、
危険を察知して生き延びてきた能力である
という視点にたつことが大切でしょう。
上記の夢は、おそらく
一旦その問題から回避したい、ということなのでしょうが、
それに直面したら、戦わなければならないと感じている、
若しくは
ふだん以上の力をふり絞らなくてはならない場面に遭遇していること。
最良の生息場所ー自分が向かうべき場所
について考えている可能性もあります。
縄張りも食べ物も、つがいの相手も、すべて戦いを通じて勝ち取られるものです。
夢主は、これから新しい仕事に取り組む準備を進めていました。
それは「思いがけなく現れ」、目立つ動きをすれば、間違いなく自分も彼らと同じように
「ズタズタに傷つけられる」だろう、と
ここから待ち受ける困難について心配していることが伺えます。
夢の動物は、よく「動物的側面」といった言葉で言い表されます。
動物と話す、というのは、ある種ファンタジーで、
荒唐無稽
ー 現実性に乏しく、他の人が聞いたらおかしいと思うことを、疑いもせずに耳を貸している、
と考えることもできますが、
自分の可能性を拡充しているとき、見ることもあります。
肯定的には、
自分には、ちょっとした能力がある
という気持ちであるかもしれないし、
否定的には、
自分にはまだ、対処できるだけの能力がない、
最悪の事態が本当に起こったらどうしよう、という気持ちが働いているのかもしれない、
私達生物は、多くの未開発、未発達のエネルギーを潜在させていますが、
その開発のために、夢のシンボルが大きな役割を担う
ことがあります。
また、上記の夢のような
危機的緊張感のなかで告げられることによって、私達は
自分の存在価値について考えたり、
改革のための努力をしたり、
厳しい反省を強いられたり、葛藤したりします。
沢山の動物に話しかけられ、楽しく過ごしました、
といった美しい夢とは一線を画すでしょう。
まさに、夢を生きるような体験をして、
それを己のこととして引き受け、自ら責任をもって生きる決意が求められている
ようにも思います。
夢主の立場に立てば、
自分の力では左右できない状況にある
かもしれません。
でも、まだチャンスはある、
ひとまずこの緊迫感からは解放され、策略を練ろう、
どの道、これにかけるしかないんだ、
(自分がうまくなる?=人間味が増す、という意味もあるのかも)、
というようなものかもしれません。
余談ですが、上記のように
誰しも、新しいことを始めようとすると、大きなエネルギーが要るように感じる
ものです。
これは、「今の状態を維持しよう」とう気持ちが働くからでもあり、
初めてしまえば、今度はその状態を維持しようと働くので、
あまり深く考えず、はじめていくことが大切かもしれません。
コメント